炊飯した小麦粒、炊飯した小麦粒アップ

小麦を炊飯

和光中学校では製粉する前に、この小麦粒をお米のように炊飯器で炊飯して、つぶ(粒)で食べてみました。表皮がのどをこする感じで、ごはんのようにたくさん食べられません。


石臼でひいた小麦粉、ふすま、石臼でひく

石臼製粉

和光中学校では、製粉は石臼を利用しています。また、うどんを作るためには、硬い表皮のふすまを取り除く必要があり、近くの製粉所で挽いてもらったものを使っています。


粉のはじまり

人類の祖先と考えられている新人(ホモサピエンス)が登場する3.5万年前(後期旧石器時代)には、野生の小麦や大麦は区別なく粒で食べられていました。氷河時代が終わり、1万年ほど前の新石器時代に入ると、定住型の農耕栽培が始まり、石臼が出現します。粉の食文化の始まりです。この頃は、麦・豆・雑穀が混ざったものを粗く挽いて、焼いて食べられていたようです。8千500年前の土器が生まれた頃は、大麦を土器で煮ることができるようになり、小麦より大麦が中心でした。臼で粗挽きした大麦のおかゆも食べられるようになりました。
5千年前頃になると、粉砕と分離という2つの操作技術、つまり製粉の原型が生まれました。こうして、全粒粉でなく、外皮を取り除いた粉ができるようになりました。この頃、古代エジプトでは小麦の粉で焼いたパンが美味しいことがわかってきました。3千年前頃になると、たくさんの粉が挽ける手で回す石臼ができました。
日本には700年頃、中国に留学した僧侶が、石臼を持ち帰り、抹茶やそうめんを作ったのが日本の粉文化の始まりと考えられています。しかし、石臼が普及するのは、それから400年以上あとの鎌倉時代以降とみられています。

製粉会社の製粉

製粉会社では、収穫後半年ほど貯蔵してから、製粉しています。これは、小麦粒の成分が安定するのを待って、均一な小麦粉品質を確保するためです。大手製粉会社の製粉の仕組みは、「バーチャル工場見学」の「製粉工場編」をご覧下さい。数多くの大型のロール製粉機を使って、小麦粒を挽砕(ばんさい)し、破砕工程と粉砕工程でロール機を通った後、20~30段に積み重ねられたふるいにより、小麦粉を採取しています。

日本の機械製粉のはじまり

明治維新による文明開化に伴って、海外からの技術導入が盛んに行われました。それまでの石臼を回す水車製粉から、明治12年(1879)、フランスから導入した蒸気動力による石臼式の官営機械製粉工場が東京・浅草蔵前に開設されました。しかし、この工場は、経営成績が上がらず、民間に移譲されたものの軌道に乗せることができませんでした。その後、パンやビスケットは携帯食糧として便利なため、日清戦争(明治27年(1894))による軍の需要増が生まれ、明治29年(1896)「日本製粉株式会社」の創設となりました。翌年には、ロール式製粉機を備えた近代的な製粉工場が稼働しました。創設当初の機械製粉は、水車製粉による伝統的なめん用でなく、パンやビスケットなど輸入小麦(通称、メリケン粉)の製粉で、国内小麦粉供給量の11%にすぎませんでした。
その後明治30年代に入って、日本製粉のほかにいくつかの製粉会社が設立され、日露戦争(明治37年(1904))による需要増を契機に日本の製粉業の基礎が整備されていきました。明治末には、機械粉と水車粉の割合は、半々となりました。さらに、機械粉は第一次世界大戦(大正3年(1914))中に飛躍して、1918年(大正7)には85%の割合までに成長しました。この明治末から大正期には、小麦粉を原料とするビスケット、洋風菓子の大量生産を始めた製菓業が生まれました。大正初めの製菓用の小麦粉消費はめん用をしのいでいました。

参考資料:
1.「日本製粉株式会社70年史、120年史」
2.「日本産業史」、監修/有沢広巳、日経文庫
3.「粉がつくった世界」、三輪茂雄文/西村繁男絵、福音館書店
4.「粉の文化史-石臼からハイテクノロジーまで-」、三輪茂雄、新潮選書