世界地図に戻る │ 第10回

第10回 今月のテーマ
第10回目は「日本の小麦のお話」です!

今回は日本の小麦のお話です。日本地図のイメージ

小麦は中国から朝鮮半島を経由して日本に伝わりました。

小麦は奈良時代において西日本を中心に本格的に栽培されるようになりましたが、当時の多くの農民は、小麦が実をつける前に苗を青刈りして、馬のえさとして売っていました。時の政府は「青麦の売買禁止令」を発布、「大小麦は夏の食糧不足の助けになる。だのに後の窮乏を省みず、青刈りをして失ってしまう。よって今より以後断固青刈りを禁止する」というお達しを出しています。

お茶のイメージ 室町中期から安土桃山期にかけて茶道が成立します。お茶につきものなのが茶菓子です。
信長、秀吉という二人の天下人に使え、茶聖と称された千利休。利休が最も好んだ茶菓子は「麩のやき」という麩菓子だったといいます。「麩のやき」とは小麦粉を水で溶いて鍋で薄く焼き、片面に味噌を塗り、巻いた菓子です。秀吉を招いた茶会でもたびたび供されており、利休は後に秀吉に切腹を命ぜられるのですが、秀吉との最後の茶会でも「麩のやき」は出されています。

江戸は徳川幕府によってまったく新しく作られた新興都市です。江戸幕府が開かれ、全国各藩の藩屋敷が築かれ城下町が形成されました。武家だけで江戸市内の6割を占めます。残った土地の半分を寺社が領し、残り半分は商売人や職人でした。それから400年、この新しい都市で様々な文化が生まれました。

ざるそばのイメージ 江戸っ子といえば蕎麦、ざるに盛られた蕎麦をそばつゆに3分の1だけ浸して一気にすすりあげる、これを3回半で食べ終わるため、この食べ方を「三つ箸半」といい、江戸っ子特有の粋な食べ方とされていました。 落語のオチで「最後に思い残したものは無いか。」の問いに「そばつゆに全部浸して食べてみたかった。」というのがあります。粋とやせがまんは紙一重だったみたいですね。
しかし江戸の初期の蕎麦はすべてそば粉だったのでゆでるとポロポロと形が崩れるためせいろで蒸しあげていたそうです。もちろん一気にすすりあげるなんてことはできません。
小麦粉のつなぎを入れて打つようになるのは、江戸幕府誕生から約100年後享保年間(1716〜36)のことです。3代続いたら江戸っ子といわれたそうですから、この時期ちょうど3代目、4代目のあたりの人々がのどごしの良い蕎麦に江戸っ子らしさを見出そうとしていたのかもしれません。

うどんは歴史が古く、奈良時代に小麦の塊だけではなかなか火が通らないのでひも状にしたものをうどんと呼びました。足で踏んで腰を出すのは当時から行われていたそうです。

なるほど

ちょっと嬉しい コムギ豆知識

「農林10号」と緑の革命

稲塚権次郎さんとボーログ博士
昭和56年金沢の育種学会で初対面した稲塚権次郎氏(左)とボーローグ博士(右)/写真は旧石川県農業短期大学による
「小麦農林10号」。昭和10年、日本国内の小麦生産量を増やそうという目的で開発された小麦の品種です。開発者は稲塚権次郎。
「背が低くて、頑丈で、骨太。とにかくいくら穂をつけても倒れないんだ。」稲塚さんは自身の農林10号をこう評しています。
稲塚さんの品種改良で当時の小麦はほぼ国内産で自給できるようになりました。
戦後すぐに「農林10号」はアメリカに渡り、アメリカの品種と交配した新品種が各地で大きな成果をあげました。
成果を聞いたアメリカの農学者ノーマン・E・ボーログ博士は、すぐさま実践に入り、小麦の病害に悩むメキシコで品種改良に成功したのを皮切りに、積極的に発展途上国の農業技術者を呼び寄せ、技術指導とともに「農林10号」から改良した種子を贈りました。
ボーログ博士は1960年代に予測された食糧危機から「緑の革命」で世界の人々を救った功労者として1970年にノーベル平和賞を受賞しました。
現在アメリカとオーストラリアで生産されている小麦の3割から4割は「農林10号」の子孫です。小麦の多くをこの両国から輸入している私たちは稲塚権次郎さんの育てた小麦を毎日のように食べているのです。

出典及び参考文献:
「日本めん食文化の一三〇〇年」農文協
「図説江戸時代食生活事典」雄山閣
「全集日本の食文化 第三巻 米・麦・雑穀・豆」雄山閣
「茶道学体系 四 懐石と菓子」淡交社
「コムギの食文化を知る事典」東京堂出版
「世界の食糧危機を救った男 稲塚権次郎の生涯」家の光協会