坂本雄次の訪問!スポーツ人 vol.11 京谷和幸さん

「誰かのために」がパワーの源

妻の覚悟で前向きな気持ちに

京谷和幸さんと坂本雄次さん

坂本雄次(以下 坂本)  京谷さんは室蘭出身ですね。サッカーは小学校2年生から始めて、高校生でバルセロナオリンピックの代表候補にもなられた。そして高校卒業後、東日本JR古河サッカークラブ(今のジェフユナイテッド市原・千葉)に入団されました。
交通事故は何歳の時だったんですか。

京谷和幸(以下 京谷)  22歳の時です。スピードを出し過ぎていたんでしょう、自業自得ですね。第五胸椎を損傷して、ちょうどみぞおちから下の感覚がないんです。

坂本  事故の後、手術、退院をされて、その直後に車椅子バスケに出会ったのですか?

京谷  周りの環境が落ち込んでいる暇を与えなかったですね。まず、事故を起こして11日後に妻が「入籍しよう」と言ったんです。
事故を起こしたのは結婚式の衣装合わせをする日の朝で、式は延期になりました。
あとでわかったことですが、妻は、僕が車椅子になるかもしれないということを承知で「入籍しよう」って言ってくれたんです。
僕自身は、車椅子になると宣告されて落ち込みましたし、サッカーができないのであれば死んだ方がいいんじゃないかとも思いました。でも妻が入籍してくれた決意や覚悟を知った時に「オレこのままでいいのかな」と考えさせられたんですね。
あの時は「サッカーが続けられない」ということよりも「妻を幸せにしなきゃいけない」ということの方が先で、「出来ることをやらなきゃいけない」と思っているうちに、いつの間にかいろいろなことを受け入れられるようになっていましたね。

夢や目標を持ち続けろ!

京谷和幸さん

坂本  事故の後、いろいろと考えこむ時間がないくらい状況が矢継ぎ早に変化して、いつの間にか車椅子バスケの世界に飛び込んで行ったのでしょうか。

京谷  車椅子になるということを宣告された日は落ち込みました。でも落ちるところまで落ちた時、初めて妻の想いを知り「このままじゃまずいだろう」という気持ちに切り替わりました。退院するまでの間は「どうしたら自分が早く社会復帰できるのか」という前向きな気持ちになり、濃い時間を過ごしました。
その時に思い出したのが、当時、古河電工のコーチだった岡田武史さんの「常に夢や目標を持ち続けなきゃだめだぞ」という言葉でした。「自分はプロサッカー選手になる事で満足してしまい、その先を考えていなかったな。とにかく小さいことでもいいから夢や目標を持ち続けよう!」と入院している時に思いました。いろいろな人にも支えられました。事故後の京谷和幸はものすごく成長できたと思います。本当に濃い7カ月の入院期間でした。

坂本  同じ経験をされても、とらえ方や気づき方で大きな差があると思います。奥様の存在も大きかったのですね。奥様とはお付き合いは長かったんですか。

京谷  付きあって2年くらいでした。コーチにサッカー選手は早く結婚した方がいいと言われていましたし、「お前はだらしないんだから管理してもらわなきゃだめだ」とも言われました。結婚に対するあこがれがあって「早く結婚したい」と思っていましたね。

坂本  人生の中で結婚というのは一つの節目ですが、22歳で結婚されたというのはかなり早い時期ですよね。あとで振り返ってみて「あの時よくぞ結婚を決断したな」とお互いに思うんじゃないでしょうか。
先ほどの岡田さんの「夢や目標を持ち続ける」という言葉も、京谷さんのように自分の家庭や生活、仕事で実行するというのは、なかなかできないことだと思います。

京谷  あの時は「自分が」ではなく「妻が」という思いを最優先させていました。「誰かのため」「両親のため」という気持ちの方が強かったですね。そうやって行くうちに、自分に返って来ることの方が多かったように思います。

坂本  京谷さんのお話に私もとても共感します。私も自分の会社の社員に常に伝えているのは「まず相手のことを考えてほしい、それが自分にも返ってくるから」ということなんです。先ほどの「夢や希望を持つこと」もそうだし「相手のため」もそうですが、口で言うほどできないんですよ。特に今の世の中はまず自分が第一になりがちですね。

京谷  事故を起こす前、サッカーをやっている頃は全部自分中心でした。
「全部オレのためにしろ」って。「オレ様キャラ」だったんです。(笑)
でも事故を起こしてから、いろいろな人に助けられている自分に気づいたんです。それまでは本当に「人は一人で生きていける」と思っていました。でもケガをして初めて、いろいろな人に支えられ、助けられて生きていることに気づき、「ありがたいな」という気持ちが心からわいてきました。
自分の故郷の北海道から、わざわざお見舞いに来てくれる親友がいましたが「自分だったら絶対に行かないな、でも来てくれたんだ、ありがたいな」と、そしてその思いに応えなくてはいけないと感じました。入院生活以後は、人に何かしてあげることで自分に返ってくるようになりましたね。もうそれが習慣になりました。もし事故に遭っていなかったら、どうしようもないスポーツ選手だったと思いますね。

坂本  卒業して社会人になり、結婚して家庭を持ち、子どもができれば一人前の大人になったような気分になりますよね。それが自然ですが、日常生活の中で「自分が生かされている」「人に支えていただいている」ということを実感できる人というのはなかなかいないですよ。

「これはスポーツだ!」車椅子バスケに魅せられる

坂本  事故後、車椅子バスケを始めたのはいつ頃からですか。

京谷  バスケット用の車椅子に乗って競技を始めたのは24歳の時でした。

坂本  車椅子バスケの印象はどうでしたか?

京谷  千葉ホークスという自分が所属していたチームを見た時、レベルが高くて「すごい!」としか言いようがなかったです。そこで悪い京谷が出てきて「無理、できない!こんなの所詮障害者スポーツだし、オレはサッカーに戻ればいいや」と逃げちゃったんです。
でも退院して2、3カ月の頃、競技も何もしていないのに「いろいろな体験をした方がいい」と「千葉県代表」として国体に連れて行かれました。試合には出なかったですが、そこで見た車椅子の選手たちの行動範囲の広さに驚かされました。エスカレーターも車椅子で登ってしまうんです。また、試合の中で選手同士が話をして、その内容がしっかりプレーに活かされているのを見て「これはスポーツだ!」と思いました。所詮障害者スポーツだと思った自分が、すごく恥ずかしかったですね。それから真剣に取り組むようになりました。

車椅子と一心同体になるために、不屈の努力を重ねる

戸惑いを乗り越えて

坂本雄次さん

坂本  足を使うスポーツから手を使うスポーツになり、車椅子も操作しないといけない。初めてプレーをした時には戸惑いや難しさを感じましたか。

京谷  最初はサッカーで動いていたイメージがあるので、同じように動くことができるだろうと思ったんです。でもいざ車椅子に乗ってみたら、ちょっと車輪に触れただけでもくるんと回ったりして、車椅子の操作の難しさを実感しました。それに足や腹筋に力が入らず、腕だけの力でボールを投げるので、投げたい場所に届かないんです。イメージ通りに動けないことが歯がゆく、最初は葛藤しましたね。マラソンの場合だと一歩が踏み出せない、というイメージでしょうか。
車椅子バスケットをやるためには、車椅子を自分の足のように自在に操らないといけない。車椅子に慣れるのに半年くらいかかりました。
それから車椅子に座って、自分のイメージするフォームで、フリースローラインからシュートを決めるまでに1年程度かかりました。
フォームを気にせず投げればネットに入らないことはないですが、それではバスケット選手として通用しないんです。最初は近いところから、徐々に距離を遠くして練習しました。

坂本  腹筋に力も入らないし、最初は車椅子バスケの体ができていなかったと思いますが、筋力トレーニングはされていたんですか?

京谷  筋力トレーニングも必要だし、やっている選手もいますが、僕はどちらかというと車椅子を自分の足のように操ることのできる筋力があった方がいいと考えました。
そこで、車椅子に20キロの重りを付けてトレーニングしました。それでターンしたりストップしたり、坂道を走ったりしました。

坂本  そうすると車椅子を操作するのに必要な筋肉が鍛えられていきますよね。(肩のあたりを触って)すごい筋肉ですね!

京谷  現役を引退したのでちょっと落ちましたけれど。でも重りを20キロ付けていたら、車椅子が壊れて折れちゃったんです。車椅子が壊れるくらいの重りを付けるのはまずいだろうと減らし、10キロや15キロくらいに調整しました。そのようにして車椅子をギュッと握っていると手の付け根の筋肉がついてくるんです。

坂本  みんなが1の力でできるところに、あえて重りを付けて鍛えていたんですね。

京谷  そうです。重りを付けた状態で、他の選手と同じトレーニングをしていました。「重りを付けてトレーニングができないようだったら外したら。」と言われるのもいやだったので、絶対に遅れないように必死について行きました。
「とにかく車椅子を自由に操作できないと上には行けない」と思い、まずは車椅子操作に重点を置き、シュートはそのあとでいいと考えました。
車椅子が重く腹筋がないため、止まる時に体が流れてしまうんです。それを防ぐために首の後ろ辺りに力を入れるようにして、自然に体幹が鍛えられました。

坂本  車椅子を自由自在に操作できるように鍛えていたら、人間の中心である体幹を意識するようになっていたのですね。

京谷  試合中は歯を食いしばることが多く首に力が入るのですが、やはり首で体の動きをコントロールしているのかなと思います。

車椅子バスケは格闘技?!

坂本  競技用の車椅子は日常生活のための車椅子とは違うんですか?

京谷  全然違いますね。競技用は回転性をよくするために車輪がハの字になっていますので、重心が安定しています。

坂本  競技用の車椅子って高いんじゃないですか。

京谷  1台30~35万くらいしますね。僕の乗っているのはアメリカからの輸入物なので、45万くらいです。

坂本  車椅子バスケットは、見ていると格闘技みたいですよね。

京谷  至るところでぶつかり合っていますね。並走していてちょっと前のめりになると、転がってしまう選手もいますしね。手のつき方が悪いと骨折もしてしまいます。僕も1999年の代表で遠征に行った時に、前歯を折りました。

坂本  ゲーム中はシートベルトみたいなもので固定しているんですか?

京谷  体と車椅子を一体化させないといけないので、ガッチガチに固定していますね。
そのため、転ぶときには車椅子と一緒に転びます。重量が重い選手はベルトが切れることもあり、車椅子から飛び出しちゃったりして。

坂本  怪我も多いでしょうね。

京谷  車椅子に手を挟んだり、ちょっとしたヒビや骨折でも僕はプレーをしていました。しかし、現役の18年間、大きな怪我で休んだということは1回もなかったです。

坂本  サッカーに比べてバスケのボールは重いですよね。車椅子バスケのボールは、通常のバスケのボールと同じものを使うんですか?

京谷  同じです。ゴールの高さやコートの広さ、スリーポイントライン、フリースローライン、全部一緒です。

坂本  一緒なの?!ゴールは低いのかと思っていました!

京谷  いや、全部一緒です。自分が立ってゴールを見ていた時も覚えていますから、目線が低くなり、最初は「こんなに高かったっけ?」と思いましたね。フリースローラインからのゴールも「届かない、無理」と。

「もう一度輝きたい!」パラリンピックを目指す

「また日本代表になりたい!」不屈の精神で突き進む

京谷和幸さん

坂本  29歳で初めてパラリンピックに出場されたんですね。
今、日本国内に車椅子バスケットのチームはどのくらいあるんですか?

京谷  85~86くらいだと思います。

坂本  パラリンピックに出るためには、そのチームの中から選抜されるんですか?

京谷  北海道、東北、関東などブロックに分かれ、そのブロックの中から推薦があり、最初50人くらいで合宿をして、そこから振り分けられて行きます。
また、全国大会で活躍した選手が合宿に呼ばれることもあります。

坂本  「京谷和幸っていう選手がいるぞ」と注目されたんじゃないですか。

京谷  そんなことはなかったです。僕がバスケットの競技生活をスタートしたのは1995年。本気でパラリンピックを目指そうと思ったのは1996年だったんです。最初は「バスケットをやっていればリハビリにもなるから」と言われ、その程度に思っていました。1995年、地元の室蘭で自身の結婚披露パーティを開いてもらったんです。その時にサッカー仲間が来てくれましたが、サッカーをやっている京谷しか知らないので、車椅子の僕を見てみんな「大丈夫かな」という目で見られました。「残念だったな」と言われたりもしました。
今までの京谷しか認めてもらえてなくて、これからの京谷を見てもらえていない気がしました。頭にきて結婚式の最後のあいさつで「車椅子バスケットを始めました。アトランタは無理だと思いますが、次のオリンピックを目指しますので応援よろしくお願いします」と言っちゃったんです。まだ全然競技はしていないし、次の開催地もパラリンピックという言葉も知らないのに。(笑)そういう舞台に立てば、仲間も絶対納得してくれるだろうな、「京谷やっぱりお前は違うよ、すごいよ」と思ってくれるだろう、ぎゃふんと言わしてやる!と、口から出ちゃったんですね。それがひとつのきっかけになり、その後競技用の車椅子が来て、トレーニングをするようになりました。
トレーニングの初めはある程度伸びていきましたが、壁もあり伸び悩んだこともありました。そんな時に同じJリーガーだった藤田俊哉選手の結婚式に参加しました。僕と同じテーブルは、やはりJリーガーで日本代表にもなっているような仲間でした。そのうちに日本代表チームの話になったりして、同じテーブルの仲間が他のテーブルに行ってしまい、自分一人だけぽつんと残されたんです。「オレ、なんにもないな」と思って、その場にいるのがすごく恥ずかしくなり、「一刻も早く帰りたい!」という気持ちになりましたが、「ちょっと待てよ、始めたばかりの車椅子バスケットで、種目は違うけれども日の丸を付けることは一緒じゃないか!」と、昔、自身がジュニアユース代表として、バルセロナ五輪の候補選手になっていた時に、日本チームが日の丸を付けたことの誇りや憧れを思い出しました。
それで「よしやってやろう、パラリンピックに出るまではこいつらとも会わないぞ!」と決意したんです。その後、1996年2月に娘が生まれました。娘が、もし父親が車椅子に乗っているということでいじめられた時に、誇りに思ってもらえるようなものを残してあげたい、家族の誇りになりたいと感じました。そしてシドニーのパラリンピックに出場することが、夢ではなくて目標に代わりましたね。

チャンスを逃さずに

京谷和幸さんと坂本雄次さん

京谷  当時はまだ千葉ホークスではレギュラーではなかったんです。僕と同じ障害で同じポジションの選手が、日本代表でバルセロナやアトランタに出ている選手でした。そのため僕は試合にはなかなか使ってもらえず、ずっとベンチでした。試合の点差が大きい時に1分、試合に出るという感じでしたが、僕は千葉ホークスという日本一のチームで練習していることに絶対の自信を持っていたので、絶えずチャンスを狙っていました。2000年のシドニーのパラリンピックの代表になるためには、前年の合宿に参加する必要があり、1999年の全国大会が僕にとっては最後のチャンスでした。ブロックから推薦されるような選手でもなかったですし。全国大会で、1回戦、2回戦に1、2分は出場しましたが、いいプレーはできませんでした。準決勝でもスタメンは日本代表の選手に決まっていました。ところが、その選手が試合開始30秒前に鼻血を出し、全然止まらなくなってしまったんです。審判は「早くしてください」と言っています。その時僕は「これはチャンスだな」と思い、「僕、いますよ!」とヘッドコーチの方を見ました。そうしたら「とりあえず京谷さん出て!」と言われて。(笑)
「これはチャンスだ!もし出場が1分であっても2分であっても、今までやってきたことをここで全部出し切ろう!」と決意しました。チームがうまくかみ合い、前半20分全部出られました。また、後半にも少し出ることができました。決勝戦でチームは負けてしまいましたが、僕は決勝戦では1分も出ていませんでした。試合を終えた帰りに、ヘッドコーチに背中を叩かれ「全日本の合宿に参加してくれ」と言われました。
そこでチャンスをつかんだのです。
「合宿に行ったらもちろんスタメン選手ばかりですから、ベンチから突然参加した僕は「誰?どこの人?」と思われていたようです。(笑)

坂本  奇跡的なチャンスを活かしきったんですね。でも急に「ゲームに出て!」と言われても良いプレーができたのは、今までしっかりと準備をしていたからですね。

京谷  車椅子操作という土台をしっかり3年間で作り上げていたので、それが自分の中で一番の自信でした。

歓声が気持ちよかったシドニーのパラリンピック

坂本  4回パラリンピックに出場されていますが、印象に残るパラリンピックはありましたか。

京谷  最初のシドニーのパラリンピックの初戦ですね。対戦相手は地元のオーストラリアでした。
自分がJリーガーの時は、Jリーグ元年で観客もたくさん入り、「ワーッ」という歓声は気持ちがよかったです。車椅子になってからは、自分にはそういう機会がなくなってしまったと思っていました。でも「バスケットで、またそのような舞台に立てるのでは」とパラリンピックを目指しました。シドニーのスーパードームという会場で試合をしましたが、1万2千人入る会場の半分以上が埋まっていました。日本チームが入場した時はさほど歓声はありませんでしたが、地元のオーストラリアの選手が入場した時、アリーナのような会場では下から突き上げてくるような歓声がドーンと来たんです。「やっとこういう舞台に帰って来られた!」という瞬間でした。すごくうれしくて「絶対こういう舞台はだれにも渡したくない!」と思いましたね。

「オレから盗め!」若手に道を譲って

坂本雄次さんと京谷和幸さん

坂本  バスケットの生活も長くなりましたが、パラリンピックの本番を見据えて1年に何回か遠征にも行くのでしょうか。

京谷  1回に1週間程度の期間で、昨年は3回くらい遠征しました。
昨年はドイツ、イギリスに10日間くらい、それからタイやオーストラリアに行って、向こうのナショナルチームや強豪チームと試合をしました。

坂本  今はどこの国が強いのですか。

京谷  昨年のロンドンのパラリンピックは、1位がカナダ、2位がオーストラリア、3位にアメリカが入りました。日本は9位でした。

坂本  参加国はどのくらいあるんですか?

京谷  12チームです。6チームずつでリーグ戦をし、1位から4位のチームが決勝トーナメントをします。日本は決勝トーナメントに行かれませんでした。

坂本  予選があるんですね。結構きついですね。

京谷  日本の所属するアジア・オセアニアゾーンは、オーストラリアがダントツに強いのですが、その中で枠は2つしかありません。ロンドンの大会予選では、韓国と最後の最後まで競って、残り10数秒で日本が逆転しました。でも残り0.3秒で日本がファールをし、韓国にフリースローを与えてしまいました。2本入れられたら負け、1本入れられたら延長、2本外したら日本の勝ちという状況でした。結果、2本外れて日本が勝ち、ロンドンの切符を手にしました。こういう状況ですので、次もアジア・オセアニアゾーンでの戦いは厳しいかもしれないですね。

坂本  まだ41歳でお若いですが、車椅子バスケットで41歳というのは引退しなければいけない年齢ですか?

京谷  41歳というのは日本代表でパラリンピックに出場した中では最高齢です。でもクラブチームに残って続けている選手は50代、60代でもいますから、できないことはないと思います。
僕が所属している千葉ホークスは、若手との入れ替わりが結構あります。僕自身は、あと~3年は千葉ホークスのレギュラーでできるとは思いました。でもその2~3年、僕がいることで若手の成長を止めてしまうのはいけないと思っていました。サッカーの指導や生涯スポーツの法人の活動もやりたいので、区切りをつけようと考えました。
去年のロンドンでの大会前、5月に全国大会があり、3位に終わってしまいましたが、チームでの活動はそれで最後にしようと思っていました。2年前から、僕は後輩に「2012年の5月の全国大会で最後にしようと思うから、それまでにオレから全部盗んでおけ」と伝えてありました。

坂本  後進へ道を譲ると同時に、これから自分が目指そうとしているものにも出会っているわけですね。

京谷  ロンドンを目指すと決めた時に、そこで引退するという覚悟を持って4年間臨んだんです。その先のことを考えておかないと、終わってから困るだろうなと思ったので、サッカーのC級ライセンスを取りに行くというのは、4年前から決めていました。

坂本  今はどのような日常生活を過ごしておられるんですか。

京谷  去年のロンドンの大会で現役は引退したので、現役の頃のようにはトレーニングはしていないですが、週に2回、最低でも1回は練習に顔を出して、若手の指導をするようにしています。

食生活について

京谷和幸さん

坂本  車椅子で日常生活を送りながらアスリートでもいらっしゃるわけですが、食事では何か気を使うことはありますか?

京谷  サッカーをやっている時は運動量が多かったので、それほど気を使うことはありませんでした。油ものを摂っても、それを消費する運動量でした。車椅子バスケットをするようになってからは、いくら激しい動きをしても動いている場所は上半身だけなので、サッカーをやっている時よりは消費できないんです。それで脂っこい物を控えて、野菜を摂るように心がけました。

坂本  全身運動ができる状態とは違いますものね。

京谷  サッカーをやっている時に比べて食事量を減らさないと、どんどん肉がついちゃいます。サッカーをやっていた時は週に4回焼肉でしたから。(笑)
それでも体をキープできていたくらい動いていました。でもオフになると太ってしまう体質だったのでよく怒られました。
車椅子だと、自分の体重が全部肘や肩に負担になってくるので、よりウェイトコントロールは意識するようになりましたね。

坂本  自分なりに食事に気を付けて、欠かさず摂るようにしていたものはありますか?

京谷  出されるものは基本的の残さず食べるようにしています。それだけじゃ足りない場合はプロテインを摂るようにしていました。それから栄養のサプリメントですね。バスケットを始めてからはより意識して摂るようになりました。
練習の時には、バナナなどの軽食は必ず体育館のテーブルに置いておきます。

坂本  何か勝つために必ず食べているものはあるんですか。

京谷  あまり気にしないですが、選手村にいる時はパスタ類を食べることが多いですね。
パスタは好きで、週に1回は必ず食べています。ナポリタンや、ボンゴレのような塩味のパスタが好きです。

坂本  一番好きな食べ物はなんですか。

京谷  カレーですね。死ぬ前に何を食べたいかと聞かれたらカレーです。

坂本  野球のイチローさんは毎日カレーを食べているそうですね。

京谷  僕も毎日食べてもいいですね。ただ、最近は量が減りました。おかわりができなくなりましたから。(笑)カレーは2日目、3日目になると美味しいですよね。カレーライスでなくても、カレーうどんでもいい。カレー味が好きなんです。

坂本  試合に勝った時にご褒美で食べるものってありますか?

京谷  試合に勝ったら・・・とりあえずビールですね。(笑)

坂本  自分で食事を作ることもありますか?

京谷  しますよ。炒めものや、鍋の〆の味つけをします。

新たな夢や目標に向かって

車椅子でも気軽にフルマラソンにチャレンジしたい!

京谷和幸さんと坂本雄次さん

京谷  今、目標があって、車椅子でフルマラソンを走りたいと思っています。
それも、レース用の車椅子ではなく、普通の車椅子で出ようと思っているんです。マラソンはタイムを追求するようなアスリートタイプの人もいれば、楽しく走れればいいという人もいますよね。車椅子の人でも「レース用の車椅子を使ってまで本格的にはできないけれど、普段自分の乗っている車椅子で、ゆっくりでもいいから走ってみたい」という人もいるのでは、と思うんですよ。

坂本  なるほど!いやぁ目からウロコですね。

京谷  そこで、普通の車椅子で僕がマラソンにチャレンジして「走れますよ」という発信ができたら「自分にもできるかもしれない、フルじゃなくてもまずはハーフからやってみようかな」と思う人がいるのではないかと考えています。

坂本  競技用の車椅子で参加する人はいるんですが、普通の車椅子で参加する人はいないですね。でも、考えてみたら国内のランナーは圧倒的に市民ランナーであり、ビギナーで6~7時間かけて走る人もいるんだから、車椅子でもそういうことがあってもおかしくないですよね。

京谷  ハーフマラソンだと荒川沿いを走る大会があるようで、今年それには出てみたいと思っています。実は、いつも乗っている車椅子で走り過ぎてしまい、折れちゃったんですよ。それで新しいのを作ってもらっているところなんです。

坂本  車椅子って重さはどのくらいなの?

京谷  12キロあるかないかくらいですね。ずいぶん軽量化されてきました。
アルミで出来ているものや、チタンのものもあります。

坂本  マラソンの競技用の車椅子は相当高価なものだと思うし、前が長くて、特殊な形ですよね。

京谷  マラソン競技用の車椅子と、普通の車椅子ではこぎ方も違うんですよ。いきなり競技用の車椅子に乗っても走れないですしね。だから、手軽にできる普通の車椅子でチャレンジをしていきたいです。

坂本  普通の車椅子に乗っている人の方が圧倒的に多いですものね。

京谷  そうです。だから10キロの部やハーフの部があると、友達や彼女、家族で参加して、障害を持っている人でも周りの人と共通の楽しみができて良いのではないかと思います。

坂本  私もそういった方々にも参加していただけるような大会を考えてみますね。

京谷  実は先日、マラソンのために地元の浦安を3時間かけて走ってみたんです。

坂本  浦安は地震の被害が大きかったですね。

京谷  家は震災の時に水が地面から噴き出したところの近くにあります。市内を走っていても地面がガタガタしているところもあって、段差に気づかずに車椅子から放り出されたこともありました。そんな中20キロ走りましたよ。「フルマラソンに出たい」という目標があり「体を動かすのをやめたくない」と思っていますね。

坂本  もともとはサッカーをされていて、その後車椅子バスケと、これからもスポーツを続けていかれるんでしょうね。

京谷  そうですね。手軽にできるのがマラソンだと思いました。

サッカーの指導者を目指す

坂本  これからも生涯、スポーツをされていくおつもりなんでしょうか。

京谷  子どもから大人まで障害があるなしに関わらず「生涯スポーツ」を普及していこうということで、昨年、仲間と法人を立ち上げて理事をやっています。拠点は市川や浦安です。スポーツを通じていろいろなことを子どもたちに伝えいく活動もしているので、そちらと並行して、昨年12月に日本サッカー協会公認のC級ライセンスを取ったので、サッカーの指導もやっていきたいと思っています。

坂本  障害者の方でもサッカーの指導の資格がとれるんですね。

京谷  車椅子で既にS級というJリーグの監督ができる資格を持っている方がいらっしゃるんです。羽中田昌さんという方で、彼は単身でバルセロナにコーチの勉強をしに行きました。実技はできないですが、実践の方法を伝えることができますからね。自分で実技ができなくても、自分のイメージする動きができるコーチを連れてくれば良いのですから。

輝きを与えてくれたサッカーとバスケット

京谷和幸さんと坂本雄次さん

坂本  これまで延べ18年間、車椅子バスケットの競技をされていたわけですが、京谷さんにとって車椅子のバスケットとはどんな存在ですか?

京谷  もう一回自分が輝けるチャンスをくれたものです。サッカーと同じくらい大事です。どちらも捨てられないですね。

坂本  事故に遭われて入院生活、その直後にバスケットボールに出会われたのは短い期間の中ですよね。そしてパラリンピックに4回出場されて、中身の濃い競技生活でしたね。

京谷  そうですね。そして、サッカーは車椅子バスケと共通点があると気付いたので、これからサッカーの指導をするときに、車椅子バスケの経験も生きてくるだろうなと思いますね。現役を引退して若手にアドバイスする中で、車椅子バスケの指導者としての道も見えてきましたし、車椅子バスケットは自分自身を成長させてくれました。

坂本  つくづく感じたのは、お話の中に一切ネガティブな話がなかったということです。京谷さんは前しか見ていないんだなと感じました。支えてくれた奥様も素晴らしいですね。
事故に遭わず、サッカーを今でもやっていたら、違った京谷さんだったでしょうね。

京谷  ダメな京谷だったでしょうね。(笑)最近では「お前が感謝とか言うな」、「そんな言葉お前から出てくるのか、偉くなったな!」と先輩たちに言われます。(笑)昔は本当にやんちゃだったんです。

坂本  本日はありがとうございました。僕もお話をうかがっていていろいろと勉強になりました。

京谷  40代って一番飛躍できる年代だと思います。30代までは好きなバスケットをやってきたので、これからは人間を磨こうかなと思っています。

坂本  京谷さんとはこれからもいろいろとお話をしたいですね。今後ともよろしくお願いします。

「運動」と「食」について

こばたてるみ

公認スポーツ栄養士 管理栄養士・健康運動指導士
株式会社しょくスポーツ代表 こばた てるみ

3年間の銀行勤務後、スポーツ栄養の世界へ。日本初の公認スポーツ栄養士16名のうちの1人。現在、栄養サポートを行っている「清水エスパルス」をはじめ、競泳オリンピックメダリストやプロ野球、箱根駅伝選手など数多くのサポートを手がける。また、ビジネスマンやOLの方向けのヘルシー&ビューティーレシピの提案や、10日で3万食完売したスポーツ弁当をはじめ様々な商品開発、料理番組出演など幅広い活動を行っている。地域食材を使った料理と共にお酒を楽しむため、テニス、ゴルフ、ランニングで汗を流している。

今の自分に合った食生活に変え4度のパラリンピック出場へ

 車椅子バスケットボール選手として、4度もパラリンピックに出場している京谷さん。みんなが憧れるJリーガー時代に不慮の事故に遭い、車椅子バスケットボールへ転向。初めは腹筋に力が入らない為に、ボールを投げても思うように飛ばなかったそうですが、不屈の精神と人一倍の努力で冒頭の実績をおさめられています。車椅子バスケットボールの魅力は、なんといってもハードなぶつかり合いとスピード感ではないでしょうか。つまり、選手は激しい当たりに負けないだけの筋力、さらには攻守の切り替えをスピーディーに行う瞬発力が必要になります。ただ、主に上半身のみで身体や車椅子を支えるため、多過ぎる体脂肪は肩や肘に負担をかけますので、適度なエネルギーコントロールを心がけることも大切でしょう。
 食材では、運動中の主なエネルギー源である糖質豊富なパスタやご飯、パンなどを適量とると共に、ヘルシーでありながらもたんぱく質がしっかりとれるエビやタコ、イカといった甲殻類や白身魚、豆腐や大豆製品、ヒレ肉やささ身肉などを上手に活用するとよいでしょう。また、脂がのったバラ肉やロース肉、魚類を使う場合には、フライなどの揚げものを控え、焼く、蒸す、煮る、茹でるなどの調理法を活用するとエネルギー量を抑えることができます。ただ、食事は単にカラダの栄養補給だけではありませんから、時には京谷さんの大好きなビールと焼肉などで乾杯するのもよいでしょう。その分、翌日にしっかり汗を流していただければOKです。
 次はサッカーの指導者を目指してらっしゃる京谷さん。ご自身の食事コントロールと共に、指導される選手達にも食事の重要性を伝えて頂けると幸いです。ぜひ目標に向かってがんばってください!

ボンゴレ・ロッソ

激しいぶつかりあいとスピード感が魅力の車椅子バスケットボール選手には、ヘルシーでありながらもたんぱく質と糖質がしっかりとれるパスタがオススメです。京谷さんのお好きなボンゴレはまさに理にかなったメニューといえるでしょう。
<ボンゴレ・ロッソ>
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坂本雄次プロフィール

坂本雄次さん

1947年神奈川県生まれ。
自身のダイエットのため始めたランニングをきっかけに、当時在籍していた東京電力で陸上部の監督を15年務め、素人の中からフルマラソンを2時間30分で走るランナーを数多く育成する。
1993年にマラソンの各種大会を企画運営する会社「株式会社ランナーズ・ウエルネス」を設立。
日本テレビ 24時間テレビ の「24時間マラソン」、「湘南国際マラソン」などの立ち上げに尽力。間寛平さんのアースマラソンのアドバイザーとしても完走をサポート。

AIMS公認距離測定員
国際スパルタスロン協会日本支部代表
一般社団法人日本ウルトラランナーズ協会(JUA)理事

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